@article{oai:opcnr.repo.nii.ac.jp:00000113, author = {當山, 冨士子 and Toyama, Fujiko}, issue = {8}, journal = {沖縄県立看護大学紀要, Journal of Okinawa Prefectural College of Nursing}, month = {Mar}, note = {“沖縄戦”は、戦史上にも稀な凄絶悲惨な攻防戦だと言われている。このような戦禍の中に、沖縄県下の師範学校女子部および高等女学校生が看護学徒隊として動員させられた。今回は、悲惨をきわめた女子学徒隊が行った看護とはどのようなものであったのか。また、それらに絡む精神保健の問題ついて既存の文献から分析を行ったので紹介したい。1 沖純戦へ動員させられた女子学徒は、県下の師範学校と高等女学校の全9校の生徒である。その中で、最も動員の多かったのが「ひめゆり学徒隊」で、戦死者も動員された学徒の過半数を占めていた。死亡した地域は、激戦地だったといわれている沖縄本島南部での死亡が目立った。2 本格的な看護教育が実施されたのは、昭和45年の年はじめからであり、3ヶ月足らずの短期養成であった。指導には、主に軍医が当たっているが、中には看護婦が指導した学徒隊もあった。3 学徒隊が配属された病院の殆どは自然の洞窟や壕あるいは墓であり、その環境はすこぶる悪い。そのような中での学徒たちが実施した看護は、(1)水くみ、飯上げ、食事の世話、排泄の世話及び処理、包帯やガーゼ交換・消毒、蛆とり、手術の介助や四肢切断後の処理、死体の片付けと埋葬。(2)破傷風・火傷・ガス壊疽・マラリア・腸チフス・脳症等の患者の看護。(3)皮下注射の実施。(4)離島においては食料の調達や薬草作りであった。4 学徒たちの精神保健については、動員当初は「お国のために…」との気負いで配置先へ向かっているが、戦況が進むにつれ、環境の劣悪さや極度の疲労等々から感情の麻痺や放心状態、そして終いには死へ追いつめられる状況となっていた。そのような中でも、「せめて太陽の下で、水を-杯飲んで死にたい」というかすかな“生,,への欲求も見られた。5 戦後60年が経過し、元学徒たちが「戦争は二度とあってはならない」と、沖繩戦の語り部となって活躍している反面、一部には未だに“目して語らない”元学徒がいる。}, pages = {48--54}, title = {“沖縄戦”時下における女子学徒隊の行った看護と精神保健(その1)}, year = {2007}, yomi = {トウヤマ, フジコ} }